Interview_asakawa of Communication Design Lab 望月衛介・音楽と広告

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浅川真次 (株式会社アーティマージュ代表取締役社長)

【音楽に興味を持った理由】
望月:元々、どのような理由で音楽に興味をお持ちになったんですか?

浅川:よくある話ですが、中学2年生の時にバンドを始めたんです。楽器はベースを選びました。楽器が何もできなかったので、一番簡単そうかなあと(笑)。
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望月:コピーバンドですか?

浅川:ええ。ヘビメタからフュージョンまでやりましたね。

望月:そのままミュージシャンになってやろう!と思っていたんですか?

浅川:いや、正直ミュージシャンになろうとは一度も思ったことは無かったですね。ベースは正直そんなに上手くなかったので、自分の実力を知っていたんですね。実は僕は東京スカパラダイスオーケストラが結成する前に活動していたバンドのベースだったんですよ。

望月:あ、そうなんですか!

浅川:ある日、「今度、スカをやるんだけどお前どうする?」と聞かれたんです。でも、スカなんてベースやってても全然面白くないと思って僕は抜けたんですね。その後、スカパラが結成したんです。

望月:スカパラって、前はスカじゃなかったんですか?

浅川:ええ。元々、3つぐらいのグループが一緒になって活動していたんですよ。だから、ひょっとしたら僕がスカパラのベースになっていたかもしれないですね(笑)。

【エアチェック少年だった頃の話】
望月:それだけの力量があったのに、ミュージシャンは志されなかったんですね。

浅川:どうしてだったんでしょうね。ただ、表に立つというよりは裏で仕掛ける側に立ちたいなという思いはありましたね。

望月:裏で仕掛けたい!とお思いになるきっかけはあったんですか?

浅川:今の方は分からないかもしれませんが、僕はエアチェック少年だったんですよ(笑)。

望月:ありましたね!FM番組をいかにテープに綺麗に残すかという。

浅川:それに命かけてましたから(笑)。

望月:すると、色々な音楽をお聴きになっていたんですね。

浅川:ジャンル的にはロックが中心でしたね。ただ、当時はアメリカンロックが好きな奴はアメリカンロックで、UKロックが好きな奴はUKロックと固まっていたんですが、僕は割と全方位色々なロックを聴いていました。プログレやヘビメタも含めて。他にも、日本のニューミュージックも聴いていましたね。結構音楽に対して貪欲だったのかもしれないです。評論にも興味を持って、ロッキング・オンに投稿したりもしました(笑)

望月:そうした経験がDJ活動に繋がっていったのですか?

浅川:そうですね。DJって色々な曲を知って、そのグル―ブが分かっていないといけないんですよね。当時の知識はそこに繋がっていると思いますね。

望月:当時のDJと言うと、今のDJ像とは違いますよね。

浅川:当時はディスコが凄く流行っていて、そこにDJは居ましたね。ただ、居ることは居るのですがディスコのDJブースって表からは見えないところにあったりして。だから、あまりDJがメインという感じでは無かったですね。

望月:当時のディスコには、チークタイムがありましたね(笑)

浅川:あれに青春を燃やしましたよね、本当に。懐かしいですね。

【若くしてバーの店長に】
望月:浅川さんは伝説のクラブであるGOLDでDJプレイをされていましたよね。これはどのようなきっかけだったのですか?

浅川:高校を出た後、音楽業界に入りたいと思っていたのですが何の伝手も無かったんです。そうして、フリーターになったんです。丁度その頃はビリヤードブームだったんですよね。案の定ビリヤードにハマりまして(笑)。毎晩毎晩バーに行ってはビリヤードを朝までやって、また仕事に行くみたいな生活をしていたんです。
すると、そこのバーのオーナーの人がソウル好きだったんですよ。アイズレー・ブラザーズとかをそこで叩きこまれまして、最後には「ビリヤードは、ソウルとファンクとバーボンだよ」と(笑)。そこから、そういったスタイルにハマっていったんです。

で、あんまりハマっているもんだから「もうお前、ウチの店やれよ」と18,19歳の頃にいきなり店長になったんです。半年後には「もっと大きくて、ビリヤード台が20台ある店がオープンするからそっちをやれ」と言われて移ったんです。ところがそこはオープン2カ月前にプロデュース会社が倒産していなくなちゃって、残ったのは倉庫会社のおじいちゃんと18,19歳の若造だけという有様で(笑)。
「これはどうしようか」と。でも、店は出来てるしオープンさせなくちゃいけないと思いまして、僕がプロデューサー的な立場になって40人ぐらいの全員年上のアルバイトを面接して雇って、店をオープンしたんです。思えば、そういう経験が今のマネジメントに生きているのかもしれないです(笑)。

望月:そのお店は流行ったんですか?

浅川:プールバーとビリヤードブームに便乗して結構流行りましたね。あと倉庫を改造して、クラブにしたりするのが流行っていた時期でもあったんですよ。江東区や江戸川区あたりの人は皆恵比寿に行ったり。

望月:すると、今有名な人もそこに通っていたりしたのですか?

浅川:店ではDJブースを開放していたんですよ。その後にオタクDJブームがあったのですが、当時から家でDJを始めていたような人達に「いいよ、回して」と。そこでDJをしていたのがギャラクシーという早稲田のサークルで、今のライムスターの前身です。他にも色々来てましたね。最近聞いたんですけど、RIPSLYMEのメンバーがよくビリヤードを遊びに来たりもしていたみたいで(笑)

【楽曲紹介1】
望月:このあたりで一曲、思い出のCMソングをご紹介頂けますか?

浅川:フェアーグランド・アトラクションの「パーフェクト」を。ENEOSのCMソングだったのですが、まだその頃はオシャレ系の楽曲をCMに使うという事があまり無かったんですね。だから、フレンチ系のサウンドがすごく新鮮でした。その後、僕もオシャレ系の洋楽をよく聴くようになったのですがそのきっかけになった曲かなと思います。

#1:フェアーグランド・アトラクション「パーフェクト」


【アーティストマネジメントの仕事について】
望月:DJ時代を経て、その後はアーティストのマネジメントを手掛けられるようになるんですよね。最初に手掛けたのはどのようなアーティストだったのですか?

浅川:GOLDでDJをしていた時に知り合ったMORE DEEPという3人組です。MORE DEEPのデビューは三人組のダンスボーカルユニットという形だったんですけど、実はMORE DEEPは音を作る裏方だったんですよ。
「Nail」 (MORE DEEP)

DJやマニュピレーターで構成する4人組のグループでした。ただ、ある時にクラブチッタでライブに出演する事になったんです。ライブに出るのにこれでは全く面白くないので、ダンサーでもいれようかという話になったんですね。当時はマドンナの「ヴォーグ」が流行っていて、GOLDにもダンサーが沢山いたので、そこで上手い奴に声をかけてみようと。
「ヴォーグ」(マドンナ)

そこで「僕達、MORE DEEPというユニットなんだけれど今度ライブで踊ってくれないか?」と声をかけたのが、デビューした3人組です。クラブチッタのライブが物凄く盛り上がって、あちこちから声がかかるようになったのですが、その中でデビューを持ちかけてくれたのがソニーさんで。MORE DEEPは当然7人組のグループだったので、7人でデビューするのかと思ったら「いや、三人と契約したいのですが」と(笑)「あ、MORE DEEPイコール3人なのか」と。残った4人はそれぞれ抜けたり、音作りに専念したりするようになったのですが、僕は元々マネージャー的な事をしていたので「じゃあ、マネジメントをやろうかな」と思って。もっとも、当時25歳ぐらいだったのですが、全く音楽業界の事もマネジメントの事も分かっていませんでした。そこでソニーさんから「ウチは個人事務所とは契約できないから、どこかの会社に入るか会社を作ってくれ」と言われたんすね。
どこかに入ると言っても、クラブシーンというのは特殊なので、ヴォーギングとかハウスなんて扱っているプロダクションなんて無いに等しかったんです。そこで、「ならば会社を作ろう」と思って作ったんですね。「会社を作ってやろう!」という熱い感じというよりは、流れでそうせざるを得なかったという感じだったのですが、むしろそれが良かったですね。

望月:その後もGroovy BoyfriendsやFavorite Blueなど様々なアーティストを手掛けられますよね。

浅川:Groovy Boyfriendsはロックやポップス系のグループなのですが、いかんせんハウス系は日本では時代的にも流行ってなかったんですよね。そこで会社としても色々な方向性を探ろうと考えて、Groovy Boyfriendsをやっていたんです。Favorite Blueとm.o.v.eに関しては、MORE DEEPの頃から一緒に色々やっていた木村貴志という男がポップス寄りとダンス寄りのユニットを二つ同時に立ち上げたいという考えを持っていて、そこでユニットを立ち上げてやっていたんですね。

【ジュリアナ東京のヒット曲の裏話】
浅川:元々、木村とはジュリアナでかかっていた音楽を「日本人制作の洋楽」という体で十数曲量産してヒットを出したりしていたんです。
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望月:え!ジュリアナの曲って洋楽じゃなかったんですか?

浅川:ほとんど洋楽です。でもそのうちの何曲かは洋楽という名目で日本人が制作して、歌っているのが外国人だったりするんですよ。

望月:すると浅川さんが作った曲がジュリアナで流れていたんですね。

浅川:エイベックスがCDを出していたので、最初はそこに行ってみたんです。すると、どうせ大したのは作れないだろうという態度で「どんなの作れるの?」と聞かれたんですよね。そこでちゃんとメロディーを作り込んで個人ボーカルをフィーチャーして、木村と一緒に「どこで、どういうきっかけで盛り上がるか」を考えて、3曲ぐらい作って持ち込んだんです。要するに「いかにジョン・ロビンソンがかけやすい曲を作れるか」という事です。結果、松浦さんが「ジョンにかけさせよう」と言って、ジョン・ロビンソンがジュリアナでかけたらヒットしたんですよね。そうして、契約する事になったんです。

望月:音楽制作においても、既に裏方のような事をされていたんですね。

浅川:そうですね。ジュリアナの曲をプロデュースするというのは、決して表に出て行く訳では無かったですからね。ただ、ユニット名ぐらいは付けないとマズいだろうという事で「RAVEMAN」というあっさりとした簡単な名前を付けて活動したりしましたね(笑)。

【“日本人制作の洋楽”を作る】
望月:一方で浅川さんはGTSの活動も始められるんですよね。

浅川:RAVEMANの流れで、日本人制作の洋楽っていけるなという手ごたえを得た事が大きかったですね。皆、外国人が歌っていればそれは洋楽だと思いますしね。そこでずっとハウスをやってきたのだから、ジュリアナでやっていたような感じで記念に一曲ハウスの曲を作ろうじゃないかと。そして、それはオリジナルよりもカバーの方が受けるだろうと。ただ、ダンスミュージックをそのまま四つ打ちにしても面白くないので、バラードを四つ打ちにしたら面白いんじゃないかと考えて選んだのが「THROUGH THE FIRE」です。そのアナログ盤を記念的に売りだして、後はMORE DEEPの頃からコミュニケーションを取っている全国のクラブに撒いたんです。そうしたら、一気にクラブヒットになったんですよね。

望月:「THROUGH THE FIRE」はどこでもかかってましたよね。

浅川:かかってましたね!面白いのが、お姉ちゃんたちがクラブでわあっと思いっきり盛り上がって、その後にDJブースに「ありがとう」とお礼に来たりする訳ですよ。そこでDJが「この曲を作ってるのは、この人達なんだよ」とレコードを見せると「……えええっ?」と思いっきり微妙な顔をされるという(笑)「外国人だと思ってた!」と驚いて。それがこんなオッサンで、夢を壊しちゃったかな?と(笑)

【m-floに受けた衝撃】
望月:浅川さんには「ツタワリスト」としてお越し頂いている訳ですが、この番組のテーマである「伝わる」という事に関して、「これは伝わったな」と感じたARTIMAGEのプロデュース作品はどのようなものですか?

浅川:勿論、MORE DEEPやGTSも良いのですが、「伝わる」という事に関して言うとやはり一番はm-floかなと思いますね。
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望月:なるほど。元々、m-floはm-floというユニットとして活動をしていたんですか?

浅川:m-floは元々、☆Takuが別の女の子とユニットをやっていたんですよ。デビューをする2年ぐらい前に、他の人に紹介されてデモを聴いて「なんか気になるな」と思っていたんです。そこでユニットを組んでいた女の子が抜けてしまう事になった☆Takuに、元々GTSで使う予定だった曲をR&Bっぽくいじってみないか?と渡してみたんです。
そうして☆Takuが仕上げてきた曲を聴いてみたら、たまたまLAから日本に帰って来ていたVERBALのラップが入っていたんですよね。「このラップは誰だ!?」と。話を聞いてみると、そのラップは英語だったのですが日本語でもいけるという事だったので、「これで日本人のボーカルが入ればいけるじゃないか!」と。すると、☆Takuが「日本人で目を付けている、良い子がいるんですよ!」と言ってきて。それが、宇多田ヒカルだったんです(笑)。アメリカでCubic Uとして活動していた頃ですね。

望月:ええ!それは、インターナショナルスクール繋がりですか?

浅川:そうです。後輩に良い子がいるって事で、紹介があったんです。後輩と言っても、年はかなり離れていたんですけどね。でも、そういうネットワークはすごいみたいです。ただ、僕はEMIの人間から「今度すごいのがデビューするよ」と聞いていたので「彼女はもうEMIからデビュー決まってるから無理だよ」と。あと半年早かったら、m-floのボーカルは宇多田だったかもしれないです(笑)。そこで「もう一人良いのが居るんですよ」と紹介されたのがLISAだったんです。僕もLISAがライブ活動などをしている事を知っていたので「LISA良いじゃん!」と。
最大の難関はVERBALで、彼はアメリカの超有名なボストン大学を出て、大学院にまで行っていたので「音楽業界で食べていくのはちょっと……」みたいな感じだったんですよ。「いや、お前ならビッグになれるよ!」と僕も言うのですが、保証は出来ないんですよね。そこで「大学に行きながら、両立していけばいいじゃないか」と説得しました。だから、m-floが始まった頃はまだ彼は学生でした。
そうして最初に上がってきたデモが「been So Long」です。それを聴いた時には、もう衝撃が走りましたね。「こいつら、本当に日本の音楽シーンを変えるかもしれない!」と。これに出会えた俺はラッキーだと。

望月:見事ヒットになりましたね。

浅川:デモを聴いて、すぐにエイベックスの松浦さんのところに持っていきました。すると松浦さんは「俺はずっとテクノとかを聴いてきたけれど、R&Bっぽいのは分からないんだよな」と前置きして、「でもお前が良いと言うなら良いんだろうからウチの社内でR&Bっぽいのを好きな奴を探して一緒に仕掛ければいいじゃないか」と言ってくれて。
そこで聴かせたのがいまrhythm zoneのトップでもある関君です。彼もR&Bが大好きで、「これやばいっすよ!」と。そうして一緒に仕掛ける事になったんですよね。松浦さんの、分からない物を分かるとは言わないし、分かる奴を信じてやらせようという姿勢は流石だなと思いますね。

【楽曲紹介2】
望月:このあたりで次の曲をご紹介頂けますか?

浅川:では、自分達の曲を。いまは地震などがあって大変な世の中ですが、こういう時だからこそ新しい時代を作っていこうよというメッセージを込めた曲です。

#2 GTS feat.ロレッタ・ハロウェイ「ブラン・ニュー・ワールド」
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【アーティスト業とマネジメント業を両立していく価値とは】
望月:「ブラン・ニュー・ワールド」を含むGTSのベスト盤が3月9日にリリースされ、GTSとしても積極的に活動をされていますよね。

浅川:GTSも長いですよね。16年目ですかね。

望月:こういったアーティスト業と社長業、マネジメント業というのはどのように両立をされているのですか?

浅川:それは今日のテーマでもある「伝わる」に関わってくる話になりますね。ダンスミュージックをやっているアーティストってプロデューサー型の人が多いんですよ。サウンドの構築から仕掛けまでを全部自分でやったりとか。だから僕達仕掛ける側の人間もダンスミュージックの世界の中に居ないと、中々アーティストと伝わりあえないんですよ。そういう意味では僕は自分でDJをやって、GTSっていうものがあって現場に立つ事で、今の時代の中でアーティストがどのように仕掛けて行こうとしているのかと言うのが分かると言いますか、リアリティを持って感じる事が出来るんですよ。
アーティストとコミュニケーションを取るために両立をしていると言うのもありますし、マネジメントと言う裏方の仕事とアーティストとして表に立つ事というのは密接に繋がっていると言う事があります。そこが一番重要なポイントですね。後は勿論、m-floやSOUL’d OUTといったアーティストのプロデュースやマネジメントを行う事が、GTSにとってプラスになるという面もあります。お互いの相乗効果ですよね。

望月:タイムマネジメントとかは大変じゃないですか?

浅川:そうですね。ただ、GTSは3人居て分担作業なんですよね。打ち込みとかは僕はやらないですし。その代わりスタジオに入ってのボーカルのディレクションなんかは僕がやります。そういった感じで流れ作業である程度出来るから成り立っているのかなとは思います。それに、曲をリリースしたからと言ってどんどん媒体に出て行くようなグループでも無いですからね。

望月:でも、結構海外のフェスに出たりしていますよね?後、クラブで回したりとか。

浅川:回すのは仕事の一環ですよね。あと、海外に行く事で今後流行りそうなダンスミュージックの潮流を捉える事が出来ますし、イビサやマイアミに行く事で本場のダンスミュージックの流れと言うのを他のアーティストに伝える事も出来ます。ウチのアーティストでイビサやマイアミに行った事のあるアーティストは本当に少ないですからね。そこを直に体験した上で伝える事が出来ます。両方共に、仕事に直結しているという感じなんですかね。

【復興とエンタテイメント】
望月:未曾有の大災害が起きた中でエンタテイメント業界には自粛ムードが拡がっていますよね。現に次々とイベントが中止になっています。少しずつ再開の動きもありますが、本格的な回復にはまだまだ時間がかかると思われますが、そのような状況下でエンタテイメント業界、音楽業界はどのようにしていったらいいのでしょうか?

浅川:あれだけの大災害が起きてしまったというのは、被災者の方や関係者の方は本当に大変だなと思います。しかし僕個人の考えとして、自分に何が出来るだろうと考えた時に、現地に行って災害ボランティアをするといってもそれらの事に付いては素人な訳です。会社があって、アーティストも抱えている中で社長が現地にぽんと行く事も出来ないですよね。音楽やエンタテイメントって、勝手にわいわいと楽しむような事を優先していいのかと言われがちですよね。ぱっと見、わいわいと笑って楽しくてにぎやかでというだけの物に確かに見えるかもしれないです。
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でもそれによって、例えば音楽で人生が救われたと言う人も沢山います。エンタテイメントによって元気づけられたり、勇気が出たりと言う人は沢山いると思うんですよね。だから、一緒くたにして全てがNGという事では無くて、やはり僕らが出来るのは音楽やエンタテイメントだったりするので何かパワーを伝えられたらと思いますね。自分自身も音楽に何度も救われているので。
後、僕達が音楽活動やエンタテイメントで動いていく事は経済活動だと思うんですよね。今、僕らに出来る事って言うのは動ける人は動いて経済を回していって、その中から復興にお金を充てていくという事で、やはり動ける人は動くべきだと思うんです。勿論、電力の問題等もあるのでこれから夏に入っていく上で、野球の問題のように東京ドームでライブなどとなると気にしなくちゃいけない事も出てくるでしょうが、その中でも出来る事と言うのはあると思うんです。
自粛の気持ちは大事ですが、その中でも動ける人は動いていって経済活動を回していくことが支援にも繋がっていくんじゃないかなと思いますね。

望月:実際にアーティスト達もそういった気持ちで動いているのでしょうか?

浅川:アーティストたちと言うのは、ある種思想に繋がっている部分があるのでダイレクトに攻撃を受けてしまう事があるんですよね。それは少し可哀そうだなと思いますね。こういう状況下で例えばライブを決行しようとなった場合、そこにはアーティストの意志だけでは無くてその周りのマネージャーや関係者や会社の人やスポンサーの人達などの意志もあるのですが、攻撃されるのはアーティストだけというような。
でも、彼らに出来る事というと、曲を書くことだったり、歌うことだったりライブをすることだったりする訳で、それを仕事としてもライフワークとしてもやって来ているんですよね。今やれる事ってそれしかないと思うんですよ。それらを一生懸命やることで何かが変わればと思うのは、ごくごく当たり前の事だと思うんですよ。僕はそれが売名になってもカッコつけになっても、それでお金が生まれて経済が回るのであれば構わないと思います。色々と批判もあると思いますし、ツイッター上でも色々とありますが、僕はそういった事は三年後にやろうよって思いますね。今は間違えた事を言ってしまっても仕方ないじゃないですか。
誰が正しいと言うのも無いし。批判される事を恐れて、アーティストだったらこういう言葉使っちゃいけないんじゃないかというようにどんどん委縮していってしまったら決して良いものは生まれないと思います。僕はそういった意志で行動していって、何か復興に協力できればと思います。

望月:是非、エンタテイメントの力で日本を盛り上げていってください。本日のツタワリストは株式会社ARTIMAGE代表の浅川真次さんでした。ありがとうございました。

浅川:ありがとうございました。

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